「介護を歌う」浅野真智子の世界
吉田 直久
母のつく紙風船を弟のやさしく返すいつまでの時
紙風船に興じる親子。だが、つき手は老いた母と既に実年の弟である。二人を見守る詠者の姉の優しき眼差し。漂う情感。描かれたのは「介護」である。
『風に沿ふ』は浅野真智子氏の第一歌集となる。平成二十二年から令和元年に「国民文学」に発表した作品の中から、三百十首が収められている。
内科外科整形外科と泌尿器科ちちははを連れめぐる院内
座るまま小鳥のやうに眠る父九十四歳いつか耳癈みみしひ
「ああ胡瓜の匂いがする」と盲ひたる義母の口元ゆるくほころぶ
雪のやみ若草色の豆ごはん炊きて届けむ吾を待つ父母に
一人だけでも重労働だというのに、浅野氏は同時期に三人の介護にあたった。その日常は「戦い」そのもの。作者はこれを二十年間続けた。少子高齢化の日本では介護が社会の重い課題となっている。財政難にある政府の支援制度には限界があり、未だ女性が家族の介護の任を強いられる実態がある。特に近隣の長男の家に嫁いだ長女は時に義父母と実父母の四親の介護を担う。
休耕の田にコスモスの幾千の花揺れゆれて風に沿ふまま
歌集名ともなった作品。作者の住む石川県小松市一帯は早場米の産地と知られ、九月の下旬は、稲刈りが終り刈田には蟋蟀が啼く。農道そばに咲くコスモス。親達の介護に心身疲れた作者の前に、吹
く風に揺れながらも、風に沿うように花を咲かせている。嫋やかな秋の花に自身の境涯を重ねたと、あとがきでふれている。
故里は横浜市なる動物園麒麟のジャンプサバンナを知らず
一頭の網目麒麟の淋しき眼ベッドにうつろな母の眼に似る
浅野真智子氏は地元の石川県の国立大学を卒業後、金沢の企業で働き、結婚すると、夫の転勤に伴い、大阪と神奈川の都市部で二十年間を暮らした。一九九八年に帰郷。夫の定年後を見据えた「豊か
な老後を求めてのUターン」だったのかも知れない。
ところが二年後、義父の他界を契機に日常は大きく変わる。義母、そして実の父母が相次いで体調を崩し、介護を余儀なくされる生活に。長女の浅野氏は親達の介護に明け暮れる。
片肺の父の吐く息荒々とショートステイの部屋に満ちをり
CTを受くる母待つ病廊の壁の冷たさ背に透るそびら
丸まりて炬燵に弛む顔ふたつ居間のカーテン閉ぢたるままに
日々介護と戦う浅野氏に転機が訪れる。小松市立図書館から届いた「短歌入門講座」の誘いである。講師は永井正子氏。この時浅野氏は九三歳の父、八八歳の義母、そして八六歳の母の介護に追われていた。精神的にも時間的にも余裕はなかった.。しかしこれを端緒に、永井氏に日々の思いを短歌に託す道を拓かれることとなった。
家と実家への行き来、ショートステイのホームから病院への往復。置かれた立場と役割を廉直に受け止めた作者。歌われた作品には、介護の瞬間瞬間を、歌に刻もうという意志を感じる歌が並ぶ。
介護は今日、「親孝行」といった美辞麗句に包まれた行いとはかけ離れたものとなっている。酷使する体力と気力。時には耐えがたい苦役を介護者に強いる。作者は様々な介護の現場と自らの葛藤に「心の写実」ともいうべき率直さと寛容の姿勢で向き合う。
着替へ厭ふ母を宥めし帰り道ふりきるやうにアヴェ・マリア聴く
汚れたる下着を洗ふわれの背に「ごめんね」と母の小さき声す
大丈夫何でもないと穏やかに答ふるまでにかかる数秒
置き去りと視線に込むる母に背を向けて仰げり暗き梅雨空
方位すら迷ふ激しき夕の雨聞こえぬ父と忘るる母と
胸深く父母に詫びをり帰りたき家に二人を帰せざること
日々の介護経験を蚕が絹糸を吐くように歌の繭を紡いでいく。そして月に一度の歌会での発表。この長年の地道な積み重ねが歌に説得力を与え、三人もの介護を時系列で追う構成は、読み手に深い共
感をもたらした。結果得た表現の奥行きと世界観。同時に介護に介在する日本社会の様々な問題や関わる人々の心理的格闘を浮かび上がらせることとなった。
川土手の夕ぐれ足の長々と夫と吾との影の寄り添ふ
介護に明け暮れる作者の支えとなったのは画家でもある夫の存在。その思いが伝わる三首。
腰おろし菜の花を描く夫を籠め渺茫として黄の色の中
身の内の病を払へと夫の手のただ黙々と「撫で牛」を撫づ
汗ばみて桜並木を過ぐるころ歩み終へたる夫の手を振る
夫は介護作業の伴走者であり、歌の理解者でもある。画家という立ち位置から作歌への啓発を与えたはずである。画家と歌人。創作への夫婦間での相補。こうした夫婦間の信頼感があってこそ、作者
は介護にそして短歌に向き合えたのではないだろうか。
ところが義母を見送った平成二十六年、新たな試練が加わる。夫の癌の発症である。
カフェラテの泡少しづつ消えゆけり夫の超音波検査の間あはひ
「発症」の言葉を深く胸に置き画像を見つむる医師に真向かふ
抗癌剤の投与を終へし夫と並む肩に師走の霙冷たし
夜更けまた眠れぬ夫か小さなる灯の下にもの読む気配ともし
あとがきによれば、夫は現在も加療中であられるとのこと。戦いは二十年の月日を超え今なお続いている。
最後に浅野氏が介護した父、義母、そして母への葬送歌を掲げる
おぼろげに眼を開くる耳元に「もう頑張らなくていいよ父さん」
よう世話になりしと姑の細き声吾に伸ぶる手柔らに包む
聴覚は終まであると医師の言ふ母に感謝の言葉を捜すつひ
浅野真智子氏の歌集『風に沿ふ』は歌人として、介護に正面から向き合った作品として今日性を持つ。そして二十年に亘る格闘と紡がれた歌は、介護に直面している世代、これから介護を受ける世代
へのエールにもなるはずだ。
いくたびを母とつきゐし紙風船弟が置く柩の隅に
あの日、母と子三人で興じた紙風船は葬送の日、母の柩と共に煙
となり加賀の空に消えた。
「家族の肖像」 安藤春美の世界
吉田 直久
『浅き春の日』は安藤春美子氏の第二歌集となる。平成二十五年から令和元年に「国民文学」に発表した作品の中から、三百二十九首が収められている。安藤氏には先に第一歌集として上梓された『ストラップ』がある。前作は作者が職場やそこで働く同僚達への、冴えた観察眼で捉えた時代の感性に特徴があった。それは『浅き春の日』にも受け継がれている
蟻の巣のやうな地下街黙々と列なし人ら職場に向かふ
街を飛ぶ鴉らの影次々とビルに落として何処に向かふ
二か月の後に契約切るる身の互ひに親しくカラオケ唄ふ
改札に別れてたちまち人波にのまれゆく君まなこに追へず
渡る人渡らざる人朝々を赤信号に試されてゐる
安藤春美氏は『ストラップ』のあとがきに記されているように、非正規の仕事を多く重ねた。その職業体験から社会や職場を様々な角度から詠み込んできた。組織に属さない立ち位置から見える風景。その眼差しは、現代的な意味での諦観=時代の本質をよく見極めようという態度に規定されているように思う。
第二歌集『浅き春の日』では立ち位置を主に家族の中に置き、そこから見える風景を詠むという意思を感じる。家族にあって世代が大きく移り変わる時期に今自分があり、これにどう向き合って歌を詠んでいくのか。歌人として自らの課題に新に取り組まれたのだろうか。
独り居の姑の住まひに燕たち疾風のごとく日すがら出入る
第一歌集『ストラップ』で作者がお姑さんを詠んだ作品。老いてお姑さんは病を得る。介護の始まりである。
降りしきる雪のむかうに何を見る五階の窓に姑の佇む
里山のをちこちに咲く山桜施設の姑のもはや知るまじ
真夜の道ひたすら急ぐなかぞらの弦月仰ぎ姑(はは)は如何にと
昼下りひぐらしの声裏山よりはらからの手に姑の納骨
夏草を間(あはひ)にしろじろ半夏生主なくしし庭隅に咲く
家族を担う者として避けることのできない節目がある。義父母の介護と看取り、そして葬送である。高齢化社会の日本にあっては多くの人が経験する。そのひと通りの流れを静かに見つめ、丁寧に詠み込む。作品から伝わるこのような姿勢の背後には、ひとつの覚悟があるように思う。あとがきには「離れ住む姑の老いや死にただおろおろとするばかり」と記す一方で、「目を逸らすことなく、自身の心に誠実に向き合って詠んだ」とある。人生や家族の局面局面をしっかりと見つめ、歌にしていく覚悟。それは故郷に住む父母にも同様である。
玄関の藍涼やかなあぢさゐに水欠かさぬと母の日日
大相撲中継見つつ解説を母にする父声に張りあり
彼岸会に家族つどひて行く墓所のいつしか母の歩みに合はす
老い母のくれしビスケット歯にほろと崩れ広がる甘さ切なし
伊吹山を拝む故郷に離れ住む父母を訪ねた際の歌。夫の親を介護する一方で自身の両親を気遣う作者。実父母と義父母の介護。今日の日本では特に女性に一身に課せられてしまう任といえる。親の「老い」をみつめることは子には哀しみを伴う行為である。そして知る育ての恩と苦労。二つの思いを包み込むような一連の作品は、自身が記すように「生の証」そのものなのだろう。
退社時刻待ちてメールをくるる夫重大な日に気遣ひますな
わが眼鏡夫に手渡し手術(オペ)室へ振り返らぬを悔いて横たふ
『ストラップ』
前作『ストラップ』で夫婦を詠んだ作品。「企業譲渡」を経て紆余曲折を経ながら再就職する夫、さらには作者自身の手術。夫婦にふりかかる困難を二人して真っ向から対峙する歌に共感を得た読者も多かっただろう。「戦友」とも言える夫。今作品では夫への眼差しは幾分穏やかになったように思える。 人生の大きな山を共に越えたという感慨がそうさせているのだろうか。
帰宅してリュックを解(ほど)く夫の背のテレビが伝ふ滑落事故を
拝殿に向かひ互ひの幸願ふわれら夫婦の時間は有限
やうやくに設置の結石破砕装置見入る夫の安堵の背か
ひさびさに家族の揃ふ夕食に夫の軽口娘の相槌
家族の世代の移り変わり。それは次代の新しい息吹を感じることでもある。
両親に『元気を出せ』と娘のくれしペアのストラップふるふるふるる 『ストラップ』
前作の試練に向き合う自分たち夫婦を励ます娘さんを描いた作品。 今作では娘さんは進学と就職をつつがなく経て社会人となる。
卒業の写真の吾に娘の似たり遠き先など見ざりし眼(まなこ)
「婚活に行ってくるよ」と娘(こ)の言へり梅雨空の朝うすき笑み見せ
初めてのフルマラソンを完走と娘(むすめ)はわれの知らぬ世界へ
娘(こ)のいだく悩みを聞ける水無月の一夜遠くに蛙鳴きたり
働き出して世界を広げていく吾が子。作者にとっては分身のような存在なのだろうか。知らないうちに大人としての経験を積み成長していく様を、少し距離感を持って見つめる作者。さりげない瞬間瞬間を歌に切り取っていく姿勢が見える。
両親を前に破顔の出来ずとも喜び見せよ婚の決まりて
通ひ慣れし駅までの道この夕べ娘(こ)を見送らむ歩みゆるらに
垂れこむる雲より小雪きさらぎの浅き春の日娘の嫁ぎたり
自分たち夫婦に「ストラップ」をくれた娘は成長し嫁ぐことに。三首目は今作の歌集名ともなった。親としての大きな一区切り。窪田空穂の持論「短歌は生活態度である」。国民文学の歌の基底でもある。歌と生活態度が相補の関係をしっかりと築けば、その両方が生きる。安藤さんの歌集は今更ながらその基本的なことを気づかせてくれる。
旅先と訪ねし長野に縁うまれ夫と降り立つ初夏一日
娘さんの嫁ぎ先の信州を夫と共に訪れた際に詠んだ歌であろうか。二人の間に時間がゆったりと流れている。この先信州の地を更に踏み、家族の未来の作歌を重ねていくに違いない。
『遠き春の日』は安藤春美さんが、自らの家族の変わりゆく世代をみつめた「家族の肖像」といえるだろう。
表現の振り子 豊田静子の世界
吉田直久
『遙かなる雲』は豊田静子氏の第一歌集である。平成九年一月から平成三十年三月までに国民文学に発表した作品から六百十八首が収められている。国民文学に入会したのは平成八年。
豊田さんは歌人とは一方に洋画家としての顔も持つ。美術団体「光風会」に所属し三重にあって作品を発表してきた。装丁に使われた油彩画は作者の油彩画である。青を基調とした色使いで、港と背景に広がる山々が描かれている。絵筆とパレットを持ち風景を見つめる豊田さんの姿が目に浮かぶ。
画家が三十一文字を使って歌を詠む時、その視界にはどんな風景が見えているのであろうか。心のカンバスには何が浮かぶのだろうか。
青き水湛ふる十津川長慶帝の亡骸ここに流れ着きしと
木曽路より恵那山はるか空青し半月白く透き通り見ゆ
春遠きを抱ける山並ははだらの雪に青き光なす
遥なるトロイア遺跡けふを来て蒼きエーゲ海見ゆる丘に降り立つ
闇深く瞬時に光る稲妻に高砂百合の蒼く浮き立つ
叙景歌五首。風景にある青い対象を詠んだ作品である。満面に水を湛えた十津川の川面の青、木曽街道より望む澄み切った空の青。雪に反照し青みを増す山並。さらにはエーゲ海の眩しいまでの青。同じ青を歌に詠みながら、言葉によって描かれた色彩は絵画同様に多様に表現されている。絵画に色彩が与える効果を叙景歌に引用する手腕は画家ならではのものだろう。歌集には「青」を描く詠草が二十三首。描かれた青をつないで見えてくるのは、色彩と光の感性の確かさである。
燕麦の熟るるに切り立てる雪のアイガー光を纏ふ
億年のいにしへの海の証しかも貝の化石の光る
雲海のいま晴れゆきて目の下の氷河は蒼し皺目の光る
風に撓ふ街のすずかけ絶え間なく葉裏返りて光を散らす
雲流れ差し来る光(かげ)に淡あはと襞多き山色を変へゆく
旅先で画家が出会う様々な光。時に雄大で圧倒するような鮮烈さを持ち、時に目を懲らせて見える微細な輝き。風に揺れるすずかけの葉裏から光が溢れる瞬間。光が織りなす様々なビジョン。
一人の表現者の中に画家と歌人が存在しうることで、光と色彩のビジョンは言葉を与えられ短歌に昇華していく。
因島の舫ふ帆船にかがまりて老いたる夫婦網を繕ふ
璃江下る筏に鵜飼せる漁師かたへに女の網を繕ふ
水の辺の子等は運河に嬉々として瓢箪を背にしぶきを上ぐる
落柿舎に去来蕉翁聴きにけむ時おき懸桶の石を打つ音
咲き盛る花のなか来て黒ぐろと上野を統ぶる時鐘の楼あり
画家は描く時、風景を「画角」に切り取る。考えるのは対象物の配置や空間の奥行き、そして光と色彩の妙。この絵画の手法は前掲の五首にも生かされている。前三首は水辺の風景。網を縫う漁夫や子ども達。穏やかな雰囲気が漂う。歌に遠景と近景が程よく配置され、水辺の人物が背景に自然に溶け込んでいる。後二首は言わば「音の風景」。石打つ音、時鐘は画角に封じ込められ、永続性を与えられたかのようである。
『遥かなる雲』には多くの旅の歌が収録されている。カンバスと三十一文字という二つの表現を持つ豊田さんにとって「旅」とは何だろうか。
独り来し気まま旅の緩らかに今年竹青き嵯峨野路のぼる
空碧く断崖を縫ふ船の旅亡き父母見ませ三峡下りを
勤皇の志士の心を語りゐし父を恋ひをり萩の旅路に
旅の途中でふと心に浮かんだもの。独り旅で手にする自由と安息。亡き父母と心の中で語らう時間。外なる風景と内なる心象が響き合う。旅という非日常に身を置くことで、表現者が得られるものについて考えさせてくれる。
豊田さんの更なるもうひとつの顔は中学校の教師だったということ。昭和二十八年、二十二歳で中学校に赴任。主に理科教師として三十七年を勤め上げたという。初任地で担当した教え子達は敗戦の年に小学校に入学。価値紊乱の中で新制教育を受けた第一世代である。当時二十代の新人教師豊田さんは彼等にどう臨んだのか。
初任地に三年担任せし子等の還暦越ゆと湯の山に集ふ
シンナーに耽る少年を探し来て夏草生ふる原に諭しぬ
反抗をあらはに示す少年は吾の前にて飼猫あやす
職員室に花瓶の水を換へに来し子を思ひ出づ童顏残る
嘗て来し御在所岳に教へ子と共にケルンに石一つ積む
初任地で教えた生徒達が半世紀近くを経て還暦を迎え、作者を温泉に招待してくれた時に詠んだ作品である。時として激しくぶつかってきた生徒達に正面から全力で向き合った思いが伝わる。豊田さんには教師生活の仕事場であった理科室を描いた一連の油彩がある。ビーカーやフラスコが並ぶ青を基調とした静謐な空間描写。当時の心象風景が伺える。
国内はもとよりヨーロッパからアジア、アフリカそしてアメリカ大陸を旅した豊田さん。歌集後半で詠まれた旅の歌を読む。訪れるのは専ら国内であり、つとめて訪れるのは「聖地」である。
旅路来て心清らになりて踏む聖地永平寺の長き回廊
登り行く聖地の山のひとところ緑に混じりて藤の紫
晩秋の熊野の山なみまなかひに白き一筋神の御滝
式年の遷御を拝すと人あまた砂利踏み締むる春の日穏し
永平寺、高野山、熊野古道、伊勢神宮。いずれも国内の代表的な神社仏閣とその周辺地域である。日本人にとって時空を越えた「聖なる空間」。「聖地巡礼」は国内外に表現の対象を求め、旅先で自己を見つめ続けた豊田さんの行き着いた先なのかもしれない。
「次第に一首の歌を纏めるプロセスの楽しさ知るようになった」。あとがきで記した作者の言葉である。
絵から歌へとイメージが装いを変えてゆく表現の楽しさ。絵画と短歌の間を「表現の振り子」は振幅を続ける。歌人として歌集を編み、今もカンバスの前に立ち絵筆を取る豊田さん。振り子の先にある到達点、坂の上の『遥かなる雲』を見つめているに違いない。
見つめる力 山本美保子の世界 吉田直久
『うつくしの江』は山本美保子氏の第一歌集である。平成二十一年から平成三十年までに国民文学に発表した作品を中心に、三百六十六の作品が収められている。
「美し」は語源ならむか古里のうつくしの江の波の煌めき
本書の歌集名となった歌である。作者の生まれは能登金剛で知られる海沿いの町石川県志賀町。生家からほど近い一処に「うつしくの江」という海辺がある。冬は波の花が舞い、夏は金泥の海に陽が沈む。この景色を見つめながら山本さんは大人になった。
人は誰もが物語を持っている。そしてその起点となる原風景は幼い頃目に映ったふるさとである。
穏やかに明けくる湾に航跡の束に光りて輝き始む
朝凪の日本海より起こる風潮のかをりの古里の家
朝焼けの最中を港に戻る船鷗の声を前後にまとふ
葛の蔓おほふ荒地の掃はれてソーラーパネルの並ぶふるさと
生まれ来て七十余年を経たある日、作者はふるさとの海辺に立つ。その時見えてきた風景。あるものは変わり、そしてあるものは変わらぬまま。作者はあるがままに対象を見つめ、歌を編む。
石川県小松市。作者が現在暮らす街である。東に白山を望み西は日本海に面した、加賀平野に広がる人口十万の都市。
麻痺しゆく指先の冷え積む雪を掻き分けて採るキャベツの緑
白菜の葉の間に霰の粒いくつ時雨去る空茜に変はる
触るる手に靄と消えゆく淡き雪藪の椿の色鮮やかに
厳冬期は雪に覆われモノクロームの世界となるこの地域。人々は色彩に憧れ、その思いは九谷五彩の芸術を生み出した。雪の白一色の中に鮮烈を放つキャベツの緑。冴えた視覚は歌により一層の鮮やかさを加える。作者はその効果を知悉している。
受話器持つままに爆音去るを待つ慣ひとなれり基地ある街に
ジェット機の発進音に耳覆ひ地球裂くると子らの駆け来る
秋の野の澄みたる空を垂直に飛行機雲の天を突くさま
芋掘りを終へて見上ぐる青き空天を突くごと雲の直線
小松は基地の街である。自衛隊と民間航空が共同利用する飛行場には、戦闘機や旅客機が離発着を繰り返す。爆音は小松に住む人々には日常である。街で人に会う際も、畑での農作業の合間にも、見上げる空には戦闘機とその航跡。十代までこの街で育った筆者には共感の四首である。しかし作者のこれらの歌は自身の境涯にも繋がっているのかも知れない。
戦死せしわが父の後を継ぎくれて愚痴こぼすなき育ての父は
兄の子を娘と呼びて六十年娘の無き吾を父の案ずる
リムジンの緩きカーブにカサカサと父の遺骨は手の中に鳴る
「父との別れ」に収められた三首。奥付に記載された略歴によれば、作者は敗戦の年の昭和二十年生まれ。第一首でわかるように、実のお父さんがこの年に戦死している。戦後は実父の弟さんを養父とする環境で育ったと推察する。三百十万もの日本国民の命が犠牲となった先の大戦。こうした家族の紆余曲折は珍しいことではなかった。養父の葬儀を終えた荼毘所からの帰り。手の内の遺骨の鳴る音。養父との六十年の長い年月に比し、あまりにも軽いその響き。哀切を越え、透徹した人生観が投影されている。
外つ国のミサイル発射の速報に電車待つ人みな天に向く
戦争で実父を失った子は七十年後、ミサイル発射をJアラートで知らされて空を見上げたのだろうか。
ランドセル声に並みくる朝々を路地の奥まで賑はひわたる
噴水にじやれあふ児らは八月の光に溶けて時々消ゆる
せかさるるままに手を上げ児のうしろ横断歩道を小走りに過ぐ
音を立て叩く霰にはしやぐ声児らたくましき通学の路
作者は小学校に通う子ども等の見守り活動に携わっている。朝に夕に通学路に立ち、登下校の子どもの安全を見守るボランティアである。四季折々を北陸の田園の道を歩みながら通学し成長して行く子ども達。その表情や行動を長年に渡ってみつめてきた作者。積み重ねは歌に観察力の確かさをもたらし、表現の多様性を生み出した。この観察力は作者の「孫歌」にも歌の奥行きを与えている。
子も孫も負ひたる長きおんぶ紐安けき寝息の背に伝はり来
抱く孫の成人の日を指に折り夫はしばらく沈黙したり
新雪に残る大小の靴の跡訪ねきたるは孫かも知れぬ
年寄は尊大と言ふ中学の孫はちかごろなに考ふる
ほろ苦き蕗の薹食む吾の顔じつと見てゐる二人の孫の
孫歌が陥りがちな類型は一片もなく、孫という題材を歌うことで見える「生きることの意味」を考えさせる作品が並ぶ。
制服に姿厳しくなる夫の二十万トンの船をあやつる
夫君は船乗りであった。一旦船上の人となれば数か月は帰らない。カレンダーを眺めつつ海にある夫を思い、帰りを待つ。船乗りの妻の人生の定めと言える。夫が下船し帰宅し次の仕事を待つひととき。夫婦には濃密な時間となる。
あなうらに土の感触久しきと夫はゆつくり庭を歩めり
下船して休暇いく日呆として潮のかをりの恋しと夫の
人波に押されて夫と手を繋ぐ雪の残りし弥彦の杜に
会えない時間があるからこそわかる、夫婦が「共に暮らすこと」の大切さ。夫を見つめる目の優しさが作品から伝わってくる。
平成二十四年、共に暮らす時間は突然失われる。夫の急逝である。
その朝を寒しと一枚羽織りたる夫の異変にわれの気付かず
船を下り夫は帰宅せしごとしシャワーの音の夕べ空耳
わが為に求めてくれし紬織身に纏ひつつ亡き夫恋し
夫君が亡くなられて七年。子の勧めに従い、夫の息づかいの残る古家を建て替えた作者。「断捨離」の日々。
残る世に要なきものと思ひ切り塵の袋に半生を詰む
山本さんはきょうも通学路に立つ
風雪に傘傾げて耐ふる子ら赤らむ頬に吐く息白し
初雪に戯るる足登校の路に残りてアートのごとし
わが影を争ふゲームいくたりの子のぶつかり来登校の道
児童等をやさしく見つめる眼は一方で「一人居」を送る作者自身の内なる宇宙に向けられているのではないだろうか。
『千代國一の短歌』は国民文学の代表だった千代國一氏(1916ー2011)の作品九百首を横山岩男氏が批評し、まとめたものである。国民文学会誌には同題の連載があり、平成八年から二十一年まで複数の会員が執筆した。本著作はこれから作者担当分を抜粋したものである。総ページ五百十の大部。國一の短歌人生七十年の航路を橫山氏の海図によって旅する一冊といえようか。
國一と橫山氏。二人を語る上で欠かすことの出来ないのが「新人会」の存在である。松村英一からの國一への声かけにより昭和三十五年二月に結成された。社中内若手の研究の場とし、「普通の常の歌会とは異なり、高度の批判、研究」を目指した。会の中で一際若い会員として参画した橫山氏は当時二十六歳。リーダーの國一は四十三歳。本著作を読み解くには、この新人会の存在と二人の十七歳の年齢差を知っておく必要があるだろう。
著作の構成は國一歌集十三作品を時系列に掲げ、各々の歌に二百字程度の批評が加えられている。冒頭は第一歌集『鳥の棲む樹』(昭和二十七年)である。
唇に盃あつる時の間をふるふかなしき汝を見たりけり
乳色に夜明くる部屋にと妻とにに見えてしばし眠れり
瓦斯のは青々と噴く妻の影くらく小さきを後より抱く
「千代の妻もの」と称される作品群からの歌である。これらに橫山氏は「湧きあがる官能性」とも「清浄感」とも評している。三首目は『鳥の棲む樹』を読んだ当初から感銘を受けた作品という。十代後半の多感な青年の心を揺さぶったのであろう。『鳥の棲む樹』刊行の三ヶ月後、橫山氏は国民文学社に入る。
『鳥の棲む樹』が詠まれた時期は太平洋戦争の時代に重なる。
一隊のまがりてゆきし角にち埃の中の兵を見おくる
万歳をさけぶ吾が声われの聞く乏しき数に君は会釈す
國一は軍隊に招集されず、戦争には兄(戦死)や友を戦地に見送る立場であった。この時期に父も亡くしている。同時代の宮柊二や近藤芳美が戦後従軍体験を詠い、若手歌人として台頭したのと違う立ち位置の若手の歌集として『鳥の棲む樹』は評価を受け、戦後歌壇に受け入れられる。第一回新歌人賞を受賞。戦争最中に父と兄を失った虚無感と相反する結婚生活での心の豊かさと官能。これによる歌集全体に形成された幅の広さと奥行きの深み。「青春の哀唱性」と橫山氏は感じ取った。
砂吹かれながれ寄りゆく一劃に渦巻れて砂の陽炎(かぎろひ)
『冷氣湖』に収められた作品である。昭和三十四年初冬の九十九里浜への吟行で詠まれたもので、橫山氏自身もこの吟行会に参加している。直後に國一の初台の家に呼ばれるなど、二人は急速に関係を深めていく。國一宅で橫山氏は新人会の話を聞かされる。國一は会場を提供、橫山氏は事務的な作業を担うこととなった。これを起点として新人会は国民文学の新しい感性の核となっていく。
『冷氣湖』、そして『冬の沙』に連なる時期は企業経営者として従業員との対峙の歌が並ぶ
待遇の要求抑へ席を立つ漂ふごとしおのれさびしく
勤労者ひとに纏ふかなしみと言ひ据ゑしとき優位に立てり
経営は孤独に堪ふることなりと易くも言ひぬ堪へつつむなし
新人会結成の昭和三十五年の日本は安保闘争で揺れた。國一の会社にあっては部下達との労使交渉の厳しいやり取り。孤独と空虚感。
一方、この頃新人会での研究と批判が重ねられる中で、國一はどのような歌を生み出していたのだろうか。
水漬く砂濡色の砂見のにつづくは風吹きやまず
砂の上を砂吹きうつりひろらなり浜辺にひとつ赭きドラム缶
水たまり避けつつ踏めりの青ちぢまりて立てる黒き穂
この三首に「対象を精緻に見よう」との態度が伺え、「描写の細かさ」を感じると橫山氏。二首目は英一の「眼のつけどころは細か過ぎ」との感想を引用している。「対象に如何に近づき、どのように歌として昇華するか」。新人会結成当時の國一の歌への問題意識や会での若手の活発な議論の一端が推し量れるようで興味深い。
灯油罐洩りて三和土(たたき)のにじめるを生(いき)の翳(かげり)ののごとく見て立つ
散る桜吹かれて地(つち)に移ろふを生の流と見て石に坐す
三年か五年は他人(ひと)の事ならず生(せい)の完結思ふとなくゐつ
生と死の一(いつ)に漂ふ能面哀(あい)のはなやぎ坐してあふげり
堆積の書冊に埋れ為すあらぬ生きの果(はたて)は自らが知る
本著作を読み、改めて教えられたこと。國一の「生」を見つめる眼差しである。一首目は國一の代表作ともいえる歌である。対象への精緻な接近から「生の翳り」を見ようとする意識。時には「生の流れ」更には「生の完結」等。様々な「生」の歌は國一の充実期から晩期に至る視座の核心を示しているのではないか。『鳥の棲む樹』時代の戦争体験と相聞、『冷氣湖』以降の労使交渉の虚無と歌の対象への精緻な接近と追究。自己の宇宙で相反するものが深層で通底し止揚される、それが「生」への眼差しに結実したのではないか。
頂の吾のめぐりに吹く風の一つに澄みて英一のこゑ
児の魂を求めて山をさすらひし師も亡き数かわが風に立つ
に果てにし老いの英一を弧坐のかたへに海鳴をきく
『天の暁』所収の作品。國一はこの時期に英一を喪う。抑制された沈潜された悲しみを橫山氏は見て取る。以後國一は「老い」そして「病」を詠む歌が増えて行く。それらの歌を慈しみながら丁寧に追っていく橫山氏。批評から伝わる國一への思い。その先にある「生の完結」。平成二十三年八月千代國一氏死去。享年九十五。
先生とわが呼ぶ声に眼を開けてうなづき給へりベッドの上に
橫山氏の國一への悼歌である。窪田空穂と英一の師弟関係を彷彿させる作品。空穂と英一の年齢差は十二。
新人会を結成し、師と共に歩んだ五十年。それは国民文学を空穂が作り、英一が引き継いだ五十余年に響き合う
歌なくば生きては行けず文字通り歌の化身と独り笑はむ
本著作の最後に評された歌である。「独り笑はむ」によって生きたと橫山氏。今この歌は自身の歌への覚悟に繋がっているはずだ。 小欄の題「共に歩みて」は『国民文学』~千代國一追悼特集号~で橫山氏が國一に捧げた悼辞の題でもある。