評論・エッセイ

国民文学歌誌や短歌専門誌などに掲載された会員の評論・エッセイです。

浅野真智子歌集『風に沿ふ』評

「介護を歌う」浅野真智子の世界

                       吉田 直久

 

  母のつく紙風船を弟のやさしく返すいつまでの時

 

 紙風船に興じる親子。だが、つき手は老いた母と既に実年の弟である。二人を見守る詠者の姉の優しき眼差し。漂う情感。描かれたのは「介護」である。

 

 『風に沿ふ』は浅野真智子氏の第一歌集となる。平成二十二年から令和元年に「国民文学」に発表した作品の中から、三百十首が収められている。

 

   内科外科整形外科と泌尿器科ちちははを連れめぐる院内

     座るまま小鳥のやうに眠る父九十四歳いつか耳癈(みみしひ)

  「ああ胡瓜の匂いがする」と盲ひたる義母の口元ゆるくほころぶ 

   雪のやみ若草色の豆ごはん炊きて届けむ吾を待つ父母に

 

  一人だけでも重労働だというのに、浅野氏は同時期に三人の介護にあたった。その日常は「戦い」そのもの。作者はこれを二十年間続けた。少子高齢化の日本では介護が社会の重い課題となっている。財政難にある政府の支援制度には限界があり、未だ女性が家族の介護の任を強いられる実態がある。特に近隣の長男の家に嫁いだ長女は時に義父母と実父母の四親の介護を担う。

 

  休耕の田にコスモスの幾千の花揺れゆれて風に沿ふまま

 

 歌集名ともなった作品。作者の住む石川県小松市一帯は早場米の産地と知られ、九月下旬は、稲刈りが終り刈田には蟋蟀が啼く。農道そばに咲くコスモス。親達の介護に心身疲れた作者の前に、吹く風に揺れながらも、風に沿うように咲く嫋やかな秋の花。そのコスモスに自身の境涯を重ねたと、あとがきでふれている。

 

   故里は横浜市なる動物園麒麟のジャンプサバンナを知らず

   一頭の網目麒麟の淋しき眼ベッドにうつろな母の眼に似る

 

 浅野真智子氏は地元の石川県の国立大学を卒業後、金沢の企業で働き、結婚すると、夫の転勤に伴い、大阪と神奈川の都市部で二十年間を暮らした。一九九八年に帰郷。夫の定年後を見据えた「豊かな老後を求めてのUターン」だったのかも知れない。ところが二年後、義父の他界を契機に日常は大きく変わる。義母、そして実の父母が相次いで体調を崩し、介護を余儀なくされる生活に。長女の浅野氏は親達の介護に明け暮れる。

 

  片肺の父の吐く息荒々とショートステイの部屋に満ちをり

     CTを受くる母待つ病廊の壁の冷たさ背(そびら)に透る

     丸まりて炬燵に弛む顔ふたつ居間のカーテン閉ぢたるままに 

 

  日々介護と戦う浅野氏に転機が訪れる。小松市立図書館から届いた「短歌入門講座」の誘いである。講師は永井正子氏。この時浅野氏は九三歳の父、八八歳の義母、そして八六歳の母の介護に追われていた。精神的にも時間的にも余裕はなかった.。しかしこれを端緒に、永井氏に日々の思いを短歌に託す道を拓かれることとなった。

 

 家と実家への行き来、ショートステイのホームから病院への往復。置かれた立場と役割を廉直に受け止めた作者。歌われた作品には、介護の瞬間瞬間を、歌に刻もうという意志を感じる歌が並ぶ。介護は今日、「親孝行」といった美辞麗句に包まれた行いとはかけ離れたものとなっている。酷使する体力と気力。時には耐えがたい苦役を介護者に強いる。作者は様々な介護の現場と自らの葛藤に「心の写実」ともいうべき率直さと寛容の姿勢で向き合う。

 

  着替へ厭ふ母を宥めし帰り道ふりきるやうにアヴェ・マリア聴  く

  汚れたる下着を洗ふわれの背に「ごめんね」と母の小さき声す

  大丈夫何でもないと穏やかに答ふるまでにかかる数秒  

      置き去りと視線に込むる母に背を向けて仰げり暗き梅雨空

  方位すら迷ふ激しき夕の雨聞こえぬ父と忘るる母と

  胸深く父母に詫びをり帰りたき家に二人を帰せざること

 

 日々の介護経験を蚕が絹糸を吐くように歌の繭を紡いでいく。そして月に一度の歌会での発表。この長年の地道な積み重ねが歌に説得力を与え、三人もの介護を時系列で追う構成は、読む者に深い共感をもたらした。結果得た表現の奥行きと世界観。同時に介護に介在する日本社会の様々な問題や関わる人々の心理的格闘を浮かび上がらせることとなった。

 

    川土手の夕ぐれ足の長々と夫と吾との影の寄り添ふ

 

  介護に明け暮れる作者の支えとなったのは画家でもある夫の存在である。その思いが伝わる三首。

 

    腰おろし菜の花を描く夫を籠め渺茫として黄の色の中

   身の内の病を払へと夫の手のただ黙々と「撫で牛」を撫づ

   汗ばみて桜並木を過ぐるころ歩み終へたる夫の手を振る

 

 夫は介護作業の伴走者であり、歌の理解者でもある。画家という立ち位置から作歌への啓発を与えたはずである。画家と歌人。創作への夫婦間での相補。こうした夫婦間の信頼感があってこそ、作者は介護にそして短歌に向き合えたのではないだろうか。

 ところが義母を見送った平成二十六年、新たな試練が加わる。夫の癌の発症である。 

 

   カフェラテの泡少しづつ消えゆけり夫の超音波検査の間(あはひ)

 「発症」の言葉を深く胸に置き画像を見つむる医師に真向かふ

    抗癌剤の投与を終へし夫と並む肩に師走の霙冷たし  

    夜更けまた眠れぬ夫か小さなる灯(ともし)の下にもの読む気配

 

 あとがきによれば、夫は現在も加療中であられるとのこと。介護の戦いは二十年の月日を超え今なお続いている。 

 

  最後に浅野氏が介護した父、義母、そして母への葬送歌を掲げる

 

   おぼろげに眼を開くる耳元に「もう頑張らなくていいよ父さん」

  よう世話になりしと姑の細き声吾に伸ぶる手柔らに包む

   聴覚は終(つひ)まであると医師の言ふ母に感謝の言葉を捜す

 

 浅野真智子氏の歌集『風に沿ふ』は歌人として、介護に正面から向き合った作品として今日性を持つ。そして二十年に亘る格闘と紡がれた歌は、介護に直面している世代、これから介護を受ける世代へのエールにもなるはずだ。

 

   いくたびを母とつきゐし紙風船弟が置く柩の隅に

 

  あの日、母と子三人で興じた紙風船は葬送の日、母の柩と共に煙となり加賀の空に消えた。


歌の意図を推し量る                  橋本千惠子

 

 先日、作品批評のことで質問を受けた。「人により批評はばらばらであり、改作する方がいる。歌稿は選者の選を受けているのにどうしてでしょう」と言うものであった。、批評するには、まず歌を選ぶことからはじまる。選ぶ範囲の作品で心に響いた作品にまるをつける。誌面は限られているのでそこからさらに選別する。作品にむきあいその作品の意図を考える。どこが自分の心に響いたか。意図をおしはかると見えて来る筈である。い作品を選んだのであるから、いところを指摘すべきである。上段にかまえて、表現はこうあるべき、工夫しろと自分の言葉を並べるのは作品に失礼であろう。作者は投稿まで自分の思いの言葉を捜し詠むのであるから未完の場合もあるであろう。それでも思いが強く出て魅力ある作品であったりするので一考したいものである。以前、校正で作品評を見ていた時、これは「誤植」である。といくつも上げて書いて来た方があり、作品でなく「誤植」の指摘であると不快に思ったことがある。作品にはみな意図がある。そこを推し量り作品に近づいて欲しい。自分の作品が評に採り上げられて載っていることは、励みになる。また解釈が深ければなおのことである。作品に寄りそうことが大切である。「余情」に見える作品が、「言いたいこと」であったのだと考えると「過剰表現」と切り捨てることは出来ないであろう。配慮した批評に出会う時、評者の歌を読む心の深さに力を思うのである。批評の確かさは、佳い作品を選ぶことでもある。批評を書きやすいと採っていたら、それは問題外である。また批評に採られたいと思えることは嬉しいことである。あの日から随分経ってしまったねお待た。せしました今から行くよ詩的で想像が膨らむ歌。今回三首しか投稿していないが、作者の歌を沢山読んでみたい齋藤あゆみ氏の作品を渡部敦則氏が評している。評者の思いもあふれている。

 

「国民文学」令和2年1月号より


山本美保子 著『うつくしの江』 評      見つめる力                                                吉田 直久

 『うつくしの江』は山本美保子氏の第一歌集である。平成二十一年から平成三十年までに国民文学に発表した作品を中心に、三百六十六の作品が収められている。

  「美し」は語源ならむか古里のうつくしの江の波の煌めき

 本書の歌集名となった歌である。作者の生まれは能登金剛で知られる海沿いの町石川県志賀町。生家からほど近い一処に「うつしくの江」という海辺がある。冬は波の花が舞い、夏は金泥の海に陽が沈む。この景色を見つめながら山本さんは大人になった。

 人は誰もが物語を持っている。そしてその起点となる原風景は幼い頃目に映ったふるさとである。

  穏やかに明けくる湾に航跡の束に光りて輝き始む

  朝凪の日本海より起こる風潮のかをりの古里の家

  朝焼けの最中を港に戻る船鷗の声を前後にまとふ

  葛の蔓おほふ荒地の掃はれてソーラーパネルの並ぶふるさと

 生まれ来て七十余年を経たある日、作者はふるさとの海辺に立つ。その時見えてきた風景。あるものは変わり、そしてあるものは変わらぬまま。作者はあるがままに対象を見つめ、歌を編む。

 石川県小松市。作者が現在暮らす街である。東に白山を望み西は日本海に面した、加賀平野に広がる人口十万の都市。

   麻痺しゆく指先の冷え積む雪を掻き分けて採るキャベツの緑

   白菜の葉の間に霰の粒いくつ時雨去る空茜に変はる

  触るる手に靄と消えゆく淡き雪藪の椿の色鮮やかに

  厳冬期は雪に覆われモノクロームの世界となるこの地域。人々は色彩に憧れ、その思いは九谷五彩の芸術を生み出した。雪の白一色の中に鮮烈を放つキャベツの緑。冴えた視覚は歌により一層の鮮やかさを加える。作者はその効果を知悉している。

  受話器持つままに爆音去るを待つ慣ひとなれり基地ある街に

    ジェット機の発進音に耳覆ひ地球裂くると子らの駆け来る

  秋の野の澄みたる空を垂直に飛行機雲の天を突くさま

  芋掘りを終へて見上ぐる青き空天を突くごと雲の直線

 小松は基地の街である。自衛隊と民間航空が共同利用する飛行場には、戦闘機や旅客機が離発着を繰り返す。爆音は小松に住む人々には日常である。街で人に会う際も、畑での農作業の合間にも、見上げる空には戦闘機とその航跡。十代までこの街で育った筆者には共感の四首である。しかし作者のこれらの歌は自身の境涯にも繋がっているのかも知れない。

  戦死せしわが父の後を継ぎくれて愚痴こぼすなき育ての父は

  兄の子を娘と呼びて六十年娘の無き吾を父の案ずる

  リムジンの緩きカーブにカサカサと父の遺骨は手の中に鳴る

 「父との別れ」に収められた三首。奥付に記載された略歴によれば、作者は敗戦の年の昭和二十年生まれ。第一首でわかるように、実のお父さんがこの年に戦死している。戦後は実父の弟さんを養父とする環境で育ったと推察する。三百十万もの日本国民の命が犠牲となった先の大戦。こうした家族の紆余曲折は珍しいことではなかった。養父の葬儀を終えた荼毘所からの帰り。手の内の遺骨の鳴る音。養父との六十年の長い年月に比し、あまりにも軽いその響き。哀切を越え、透徹した人生観が投影されている。

   外つ国のミサイル発射の速報に電車待つ人みな天に向く

 戦争で実父を失った子は七十年後、ミサイル発射をJアラートで知らされて空を見上げたのだろうか。

  ランドセル声に並みくる朝々を路地の奥まで賑はひわたる

  噴水にじやれあふ児らは八月の光に溶けて時々消ゆる

  せかさるるままに手を上げ児のうしろ横断歩道を小走りに過ぐ

  音を立て叩く霰にはしやぐ声児らたくましき通学の路

 作者は小学校に通う子ども等の見守り活動に携わっている。朝に夕に通学路に立ち、登下校の子どもの安全を見守るボランティアである。四季折々を北陸の田園の道を歩みながら通学し成長して行く子ども達。その表情や行動を長年に渡ってみつめてきた作者。積み重ねは歌に観察力の確かさをもたらし、表現の多様性を生み出した。この観察力は作者の「孫歌」にも歌の奥行きを与えている。

  子も孫も負ひたる長きおんぶ紐安けき寝息の背に伝はり来

  抱く孫の成人の日を指に折り夫はしばらく沈黙したり

   新雪に残る大小の靴の跡訪ねきたるは孫かも知れぬ

   年寄は尊大と言ふ中学の孫はちかごろなに考ふる

   ほろ苦き蕗の薹食む吾の顔じつと見てゐる二人の孫の

 孫歌が陥りがちな類型は一片もなく、孫という題材を歌うことで見える「生きることの意味」を考えさせる作品が並ぶ。

  制服に姿厳しくなる夫の二十万トンの船をあやつる

 夫君は船乗りであった。一旦船上の人となれば数か月は帰らない。カレンダーを眺めつつ海にある夫を思い、帰りを待つ。船乗りの妻の人生の定めと言える。夫が下船し帰宅し次の仕事を待つひととき。

夫婦には濃密な時間となる。

  あなうらに土の感触久しきと夫はゆつくり庭を歩めり

  下船して休暇いく日呆として潮のかをりの恋しと夫の

   人波に押されて夫と手を繋ぐ雪の残りし弥彦の杜に

 会えない時間があるからこそわかる、夫婦が「共に暮らすこと」の大切さ。夫を見つめる目の優しさが作品から伝わってくる。

 平成二十四年、共に暮らす時間は突然失われる。夫の急逝である。

   その朝を寒しと一枚羽織りたる夫の異変にわれの気付かず

  船を下り夫は帰宅せしごとしシャワーの音の夕べ空耳

  わが為に求めてくれし紬織身に纏ひつつ亡き夫恋し

 夫君が亡くなられて七年。子の勧めに従い、夫の息づかいの残る古家を建て替えた作者。「断捨離」の日々。

  残る世に要なきものと思ひ切り塵の袋に半生を詰む 

 山本さんはきょうも通学路に立つ

   風雪に傘傾げて耐ふる子ら赤らむ頬に吐く息白し

  初雪に戯るる足登校の路に残りてアートのごとし

   わが影を争ふゲームいくたりの子のぶつかり来登校の道 

 児童等をやさしく見つめる眼は一方で「一人居」を送る作者自身の内なる宇宙に向けられているのではないだろうか。

    「国民文学」 令和元年十月号より


狐塚                         本田 守

 千代國一の歌集『天の暁』に、小松市串茶屋町に残る遊女の墓を詠んだ一連がある。狐塚草生を接し怪火の燃ゆる夜ありや遊女の墓に遊女の墓のすぐ裏手はなだらかな丘陵になっており、「狐塚」と呼ばれていた。國一が訪れた頃は、畑地が広がっていたようだ。畑地になる以前は、昼なお暗い大きな森があったという。

 ここには次のような昔話が伝わっている。

前田利常公の昔、粟津温泉の宿に毎晩一人の老僧が現れて、大勢の人々を前に説法をしていた。その様子に不審を抱いた男が帰っていく老僧の後をつけていったが、いつも森の手前まで来るとその姿を消してしまう。ある。晩やっと老僧を捕まえて問いすと、その正体はこの森に棲む年老いた狐であった。狐が言うには、串茶屋の遊女屋には一匹の化け猫がおり、遊女に化けて毎晩客を食らっている。「その化け猫の遊女が私の説法の座に来たら退治しようと機会を窺っていたのだと言う。ある夜、遊女屋で大騒ぎがあった。翌朝男たちが様子を見にいくと、年老いた孤と、これもまた年老いた大きな猫が、二匹とも血まみれになって倒れていた。人々は狐を憐れみ、祠を建てて懇ろに弔った。これが狐塚の謂れであるが、もともとこの場所は古墳だったそうである。実は、私の自宅はこの狐塚の上に建っている。三十数年前に、この辺り一帯は造成されて宅地となった。私が家を建てた頃は周囲にはまだ多くの畑が残っていたが、ここ数年の間にものすごい勢いでアパートや家が建ち並

び、もはや昔日の面影などかけらほども残っていないだろう。わずかに女の墓が市の指定文化財となって残るのみである。

 昼なお暗く深い森は明るい住宅地に変わり、私はそこに住んで三十年になる。時折、その昔鬱蒼と茂っていた頃の森の暗闇を思う。今や人間社会の闇の方が恐ろしい。それに比べれば、狐や化け猫でさえも、なにか親しく懐かしいものに思われるのだ。

                                「国民文学」令和2年1月号より